今回は、前回に引き続き「文法原理主義に侵された人」というテーマで書いていきたいと思います。この後編では、主に文法原理主義になってしまう背景や弊害について言及していきます。
前編を見てないという方は、以下のリンクよりどうぞ⇩
前編では主に文法原理主義者の定義や実態について書きました。それでは、何故そのような人が出てきてしまうのかという背景について言及していきます。
”文法原理主義者”が出てくる一つの要因として、日本の英語教育が挙げられると私は考えています。それでは順を追って説明しますね。
皆さんも中学と高校で英語教育を受けたことがあると思います。その時の光景を思い出してほしいのですが、どちらかと言うと文法事項や単語を覚えるといった暗記がメインではなかったでしょうか? 毎回のように単語テストがあったり、教科書に出てくるフレーズを丸暗記させたりと。。。
高校での英語教育となると、学校によっては露骨に大学受験対策という面が滲み出てくるかと思われます。この”受験対策”というのがミソになってくるのです。
先ほども軽く申し上げた通り、日本の英語教育はどうしても文法や単語などの知識を詰め込む暗記型教育という側面があることは否めません。この教育方法だと、確かに知識量は増えますが逆に型にはまった思考に陥る危険性があり、柔軟性に乏しくなるという負の面もあります。
結果として、重箱の隅をつつくように文法等に固執するあまり、他人のミスに不寛容になったり、自らが失敗を恐れて身動きが取れなくなったりします。
このような日本の教育背景があることに因って、文法原理主義に傾倒する学生がしばし見られる感じになっています。その弊害は、自身の英語能力の躍進にブレーキを掛けるどころか、他人の犯した些細なミスにも過剰反応してしまい、世間の空気的にもあまり良くない効果を生むことになると思います。つまりは、語学初心者が気軽に安心して自分の学習成果を発表できない?状況にもなり得ますね(特にTwitter等のネット空間では…)
よく言われる話ですが、自転車を漕げるようになるまでには何度転んでも挫けずに立ち上がって練習することが重要です。そうして失敗して、トライ&エラーしてこそ上達するのに、その失敗すら許されないような環境にしてしまっては元も子もありません。
前編でも書かせて頂きましたが、「言語は生き物」です。そう目くじらを立てることなく柔軟な姿勢を持って温かい心で見守ることも大切ですよね!!
前編、そして後編と2本立てになってしまいましたが、長きに渡ってここまで読んで頂きありがとうございます! それでは、次回のコラムもお楽しみに♪